『秋刀魚の味』を見て
小津の映画を見たのは10年ぶりくらいか。学生の時分に『東京物語』を見たときは、空気感がすごくノスタルジックで好みであったことは間違いないが、それ以上の感慨はあまりなくて、むしろ退屈に思えた。それから小津からは遠ざかっていた。
『秋刀魚の味』は良い、と聞いていて、次に見るならこれだなとは思っていた。で、この前ふと映画を見る気になって、アクション映画の刺激よりも情緒的な味わいをと思ってこれを選んだのだった。
見始めてしばらくして、だいたい散漫で気が散りがちな自分が、画面に食い入るように見ていることに驚いた。それなりに眠いときに見ていたのに、不思議だった。なんでだろうと思ったが、はっきりとは言語化できていない。会話の妙、時代資料的な面白さ、心情の機微、いろんな要素が絡み合って演出される引力があるのだろう。
「遅かったじゃないか、え? 細君に叱られでもしたのかい」とか、「いやだわ、失礼しちゃう」みたいな、昭和の文芸作品を朗読しているみたい劇中の会話は、割に自然な気持ちで見ていられるのだが、振り返ってみれば本当にこんな風に60年前の人たちが喋っていのか?とちょっと信じられない。もしこれがリアルなのだとしたら、日本語も相当に姿を変えているのだな。
大人たちが所構わずタバコ(ショートピース、ホープ、ハイライト)を吸っている時代。
結婚が女の幸せだと疑わない男たち
そう思っていても娘を手放せない父たち
結婚だけが幸せじゃないと気づいている女たち
家族を放っておけない女たち
結婚できずに年を取って老父との生活に先行きの不安を覚える女
娘を嫁にやってしまって過去にすがるしかない父たち
寂しそうな父親を気遣う息子たち
娘が嫁に行くと言っても、何も今生の別れというわけじゃないし、自分を気遣ってくれる優しい次男坊もしばらくは家にいる。それなのに、つい「一人ぼっちか」と呟かざるを得ないという、娘が嫁ぐことに安堵しつつも、どこかいじけた喪失感を拭いきれない。笠智衆の階段を見上げる表情にとても感動した。これは小説にはできない、映画にしかできない表現だと思った。
『秋刀魚の味』という題名にも味わいを感じる。
父になる前に
これを書き始めた今は、2025年9月23日の22時。
明日の昼頃には妻のお腹で眠るちょっと大柄な双子の姉妹がこの世に生まれてくることになる。生まれてからは忙しすぎて感慨に浸っている暇もないだろうから、いまの気持ちを残しておこうと思った。大きくなってきたらきたで、喜ばしいこと、憎たらしいこと、悲喜交々でふり返る暇もないだろうし。さっき、帝王切開を控える妻とLINEしていた(仕事で前夜の面談は叶わなかった)。妻は大きいお腹とさよならするのが寂しくて泣いたそうだ。それを聞いて、これまでなかった現実味がいきなり湧いてきた気がする。
生まれてくる子に、何が伝えたいだろう。名前は何ての? いま元気? どんなことが楽しい? 好きな人や友だちはいる? いや、いなくてもいいんだけど。お父さんとお母さんがいるからね。幸せ?
そんなことを考えながら歩いていたら、感極まって自然と涙が出てきた。生まれてくるのが嬉しいんだろうか。そんなシンプルなものでもない気がする。迫り来る子どもたちとの人生と、子どもが育っていく様子なんかを想像して、感動を前借りした感覚に近い気がする。"moving"の訳が"感動"なんだろうけれど、この絵も言われない感覚を上手く訳したなあ、と思った。
伝えたいことを言葉にしている自分を想像して思い出したのは、『Cowboy Bebop』のフェイ・バレンタインが、無くした過去と邂逅を果たすシーンだった。フェイは、大昔に自分から送られたビデオレターを通して、過去の自分と再会した。欠片も思い出せないけれど、そのビデオの中で自分に言葉を投げかけるのは、やっぱり自分。過去の自分は、今の自分に「幸せ?」「元気?」と聞き、そして最後にはエールを送ってくれるのだった。
はじめてこの話を見たのは中高生の頃だったか、とにかく若かった。いい話だなあ、とは思ったけれど、それだけだった。それが、歳をとってから見てみると不思議、涙が止まらなかった。けだし、自分にも「過去」ができたということだろう。生きていくに連れて、後ろに置き去る過去ができる。そしてふと思い返すと、そこには過去の自分がいる。あの時は楽しかったね、辛かったね、そんな声をかけてやりたくなる。過去の自分の方はどうだろう? 今の自分がこんなことになっている(良し悪しまとめて)なんて知る由もない。それに、あんまり先々のことを考えるタチではなかった。でも、どこか漠然と、何年後かの自分の幸せは願っていたと思う。誰でもそうだろうけれど。アイツのそんな気持ちに触れるようで、感極まったんだと思う。自分のことじゃないけれど、双子にかけてやる言葉を考えていた時も、そんな気持ちだった。
それで、思いつきだけれど、Vlogを残すことにした。とりあえずカメラを回しての一発撮り。リハもなし、カンペもなし。考えつくままに話した。途中で涙が出て情けなかった。でも、伝えたいことは言葉にできたと思う。喜んで欲しいわけじゃない。知っておいて欲しいこと。聞きたいこと。忘れないで欲しいこと。これを言葉にした。いつか双子が見る日が来る。その日がくるまで、いったん忘れておこう。
清水の脚
新幹線で2時間15分ほど。近い。近すぎる。
かつての東海道中は歩きで2週間にも及んだ(それでもだいぶ早いが)そうだ。京の都をそれだけ気軽に訪ねられるというのはありがたい限りなのだが、旅情というものをついつい忘れがちだ。といって、長らく自分は旅情に憧れてすぎている。大正くらいまでの文学に出てくるような、もはや「逗留」というのがふさわしいような長期的かつチープな滞在こそが旅である、くらいに思ってしまっているように感じる。こんなのは財産なり仕事なりをかなぐりすてない限りは味わえないものだ。一生、憧れ続けるくらいがちょうど良いのかもしれない。それに、富士山が車窓を左から右へ足早に通り過ぎていく様を見て、自分が憧れる旅情めいたものを感じていたので、自分も高飛車ぶっているだけでどうしようもなくツーリストだと思う。
京都に着いてからは、そのまま清水に向かった。
清水は、以前の滞在時には舞台の基礎部分が改修中で、「縁の下の力持ち」の部分は覆い隠されていた。せっかくだからそれを見てみようじゃないか、となった。自分の足を使わないようにするなら、バスを乗り継いで行くのがいいのだが、バスはひどく混んでいそうだということが乗る前にわかった。それで、少し遠くはあるが電車で近づけるところまで行って、そこからは自分らの膝栗毛に乗って行くことにした。
清水五条駅からは、車通りの多い緩やかな坂道を歩いてから、いよいよ参道に向かって細くてやや急になった坂を登っていく。狭い車道に狭い歩道。車道は小幅にもかかわらず、小学生を載せたバスが何台も窮屈そうに上ったり下ったりしている。歩道も1.5mほどしか幅がないので、参拝客は礼儀正しく1列で登っていくしかない。重装軽装、スーツケースを押し押し登る人もいる。そして人種も様々で、まさに多種多様という感じである。
少し行くと、「清水寺近みち」とある看板に出くわす。それによれば右手に進めばより短距離で清水寺にたどりつけるらしい。あとからわかったのだが、これは表参道を迂回する裏道で、観光地らしい活気からは遠ざかるが、なるほど人通りは少なく、歩き心地は悪くなさそうだ。あまり人ごみの得意な性分ではないし、せっかちであるものだから、迷わずここを行くことにした。ここは表の清水坂に対して茶わん坂という名を持つらしい、と後から知った。
車道と歩道の区別もない道だが、車も人もあまり多くないので、歩くのに不便はない。道沿いにはあまり商店もなく、宿が何軒かあるくらいでたしかに面白みはない。でも、道の見通しはいいし、こちらからも清水寺の三重塔はよく見えた。自分の歩調でずんずん歩いて行けるのはとても心地が良かった。
裏道なだけあって、境内には脇手から入っていくことになる。そしていくつか石段を登る。すると、人、人、人。人通りを避けたから忘れかけていたが、ここは天下の観光地・清水寺である。観光客に修学旅行の学徒でまさに溢れかえらんばかりの境内に出た。こうなると自分は、名刹に見惚れるよりも人いきれに辟易してしまうので、仁王門を写真に収めると、足早に奥に進んでいく。拝観料を納めて清水の舞台に向かった。いま思い返せばもっとじっくり見てもよかったのだが、前に訪れた厳島でもそうであったように、人の中にいると足が勝手に前に進んでしまうので困ったものだ。
さて、舞台にたどり着くと、写真や映像、記憶と照らしても案外とそこが狭いことにかえって驚く。あれ、こんなものだったかなというのが素直な感想だ。だいたい、普通の電車の車両が一両すっぽりと収まるかどうか、といったくらいだろう。清水の舞台はだいたい遠景で眺める構図にばかり親しんでいるから、こうして自分が立つというのは当たり前ながら新鮮な感慨をもたらしてくれる。舞台からは京都市内がまさに一望できる。ここが盆地であり、高層ビルなどを排して注意深く景観を守っていることがよくわかる。別に絶景だとは思わない。普通の街並みだ。しかし、寺や市内の様相は違えど、数百年に渡ってこの景観が好まれてきたわけであって、そう思うとここに立つことの感慨も生まれてくる。首を左右に振って市内を眺めまわし、今度は下を見てみると、木々の合間から庭園が見え、人が行き来してるのがわかった。そうか、この下も境内なのか、と思った。自分は清水の舞台だけが清水寺だと思い込んでいたと見える。
舞台を抜けて、地主神社(改修中)を横目に歩を進め、阿弥陀堂を過ぎていく。そうすると山肌を等高に拓いた道に出て、舞台を向かって右側から眺める位置に来ることができる。ここに来てやっと清水寺に来た気持ちが強まるあたり、写真や資料で何度も見た姿をどうしても求める自分がいるように思う。が、それはともかく、やはり清水寺はここから見るのが一番格好いい。何がそう感じさせるのかと考えるに、おそらく舞台を支える脚部が魅力的なのだ。清水寺を清水寺たらしめているのもこの特徴的な脚部であろう。ほとんど同じ姿の柱が経緯に組まれ、正しく本堂を支えている。現代を生きる自分らにとって、同じような姿の木材が並んでいる様にはさほど違和感がない。しかし、これはよく考えてみれば偉業である。自然に生える木々は、それがいかに杉や檜のような樹種であっても、全く同じように育っているものはない。まして、この大きさ、太さである。まず、これだけの数(舞台の直下だけでも18本)を揃えるだけでも骨が折れる。しかもそれを、釘も使わず、文字通り組み上げることで本堂の礎としている。そのような作りで柱たちに等しく力を分散させるように組むことは至難だろう。重機や機械的な工具もない時代にそれだけの仕事をやってのける業には、月並みながら敬服する。もはや、執念すら感じさせるほどである。直接的な作り手である宮大工たちにもそうだし、これだけ困難な仕事を指揮した指導者たちにもそれを感じる。何が、それほどまでに人を突き動かすというのか。寺ひとつを作ることが、その人たちにとってどれだけの動機であったのか。
寺社を建立する、とはどういうことなのか。寺社とは、私たちにとってはあまりに自然にそこにあるものだから忘れがちだが、考えてみればそこには必ず興りがあって、崇められ、継がれてきたという経過がある。つまり、歴史がある。誰それが何某の寺社を建立した、という無味乾燥なテキストでの記述からはそれは計り知れない。まさか建立者がひとりでせっせと材を組み上げたわけもなく、そこには想像を絶するほどの資材が費やされているはずだ。
天下泰平なのか、子孫繁栄なのか、あるいは人民の息災なのか救世なのか。いずれにせよ、寺社とはそれに関わったものたちの祈りや願いの結晶であるとみなしてよい。それに、普通の町屋と違って久しく寺社がそこにあり続けることには、町民らからの畏敬の念もあったことだろう。
庭園を過ぎて、清水寺の脚部を見上げる位置に来た。舞台までの高さは、現代的な住居でいえば、3〜4階建に相当するだろうか。だが、清水はそれに比することができないほど、高くある。
カネコアヤノ Livehouse Tour 2024
東京講演2日目 Zepp DiverCity
カネコアヤノのライブをはじめて見に行った。
10年ぶりのZepp DiverCity。前回は、我らがKings of Metal、Manowarだった。どんな差じゃい。10年前は、血潮のたぎりを抑えきれないたくさんの益荒雄たちが台場を闊歩していて、いい雰囲気を求めて集ったであろうカップルたちが目を白黒させていた。申し訳なかった。
さて、今回のライブについてだ。
端的に申し上げて、とても良かった。感銘さえ受けた。同じ音楽サークルにカネコアヤノがいたら、好きになっちゃうだろうなと思った。同い年だというのがまた、愛着を湧かせる。
コンサートのステージ上には不釣り合いに思えるような、まっ白でふわんとしたワンピース。そしてまた、この服装に不釣り合いに思える赤いギブソンSGをかき鳴らす姿。ポール・マッカートニーをほうふつとさせる声量と、シャウト混じりの歌唱。アンニュイだったり、怒気まじりだったりで、喜怒哀楽と生活を切り取ったような曲目。どれをとっても秀逸だった。不勉強で曲が半分くらいしかわからなかったこともあって、あんまり話したことがない人と、いざ話してみたら気があって、飲みながら2時間くらい楽しく過ごした、みたいな満足感があった。
技術的な話をすると、カネコアヤノはとにかくリズムがいい。弾き語りの経験が豊かだからかな。時折カネコアヤノがリズムを引っ張っている時すらあって、ドラム(これもめちゃ上手い!)が必死についていくことになっていて笑った。
この歳になって、また新たに「好きなアーティスト」が増えてとても嬉しい。
また見に行こう。
スウィート・ホーム(『ノマドランド』感想)
ノマドとは、遊牧民や放浪者を意味する英単語だ。遡ると、フランス語に行き着き、さらに遡ればラテン語、さらにさらに遡るとギリシャ語のノモスに関連する言葉(nemein)に行き着くそうだ。ノマドという言葉の受容史までは文献に当たらないとわからないが、80年代にはドゥルーズがノマディズムを唱えていたから、そのあたりでこの単語が復権して今に至るのではないかと考えている。「ノマドワーカー」なんて言葉も耳にするが、これは実はジャパニーズイングリッシュで、英語にはこの概念はないみたいだ。
さて、本作は現代のノマドの物語である。
主人公ファーンは、夫を亡くし、さらにはリーマン・ショックの煽りを受けて失業、さらには住む場所も失ってしまう。そこで、愛車(”ヴァン”ガード)に最低限の家財だけを積み込み、仕事を求めてアメリカ各地を放浪する旅に出る。行く先々の場所や勤務先では、ファーンのきさくな人柄もあって、信頼すべき知人・友人にも恵まれた。ファーンは中年女性だけれども、同年代はもちろん、自分よりも高齢のノマドもたくさんいて、しかもそんなノマドたちの集いもあったりで、そんなに寂しくなさそうな暮らしぶりである。でも、ファーンは、周りのノマドたちとはちょっと違う。ファーンは、ガチのノマドなのだ。
はじめにできたノマド友達であるリンダ・メイは、家を建てるとか何とか言ってノマド生活から抜け出す(実はこのあたり、退屈だったわけでなくこの映画の不思議な浮遊感のおかげで船を漕いでいてしまい、記憶が定かでない)。
ノマドにとって生命線であるヴァンのタイヤがパンクしたときに助けてくれたスワンキーは、肺がんで余命いくばくもない。だから、最後に見たい景色があった。それはかつて見たアラスカに群集する燕を、カヤックから見上げるというものだった。そこへ向かうために、やっぱりこの先輩もファーンのもとから去ってしまう。
ちょっとしたロマンスの相手でもあるデイヴは、孫ができることとなって、父親の務めを果たしてこなかったことに気まずさをかかえながら、他ならぬファーンの後押しを受けて、やっぱりノマドの生活から抜け出すことになる。
ノマド生活で関係の深かった以上の3人は、あれやこれやを経てノマドの生活から離れていくことになってしまうのだ。スワンキーはどうなの、と思うのだが、映画の終盤でファーンのスマホに動画が届く。開いてみると、まさにスワンキーが語っていた燕たちの飛翔ではないか。それを見て、ファーンは、「帰ったのね。」とつぶやく。家ではない、されどhomeである場所へとスワンキーはたどり着いたのだ。
映画に登場するノマドたちは、皆が皆、ノマド生活を礼賛している。しかし、その気持ちに嘘偽りがなくても、やっぱりノマドになったことには消極的な要因がつきまとっていたのだろう。別の言い方をすると、ファーン以外のノマドたちには、車上生活以外のhomeがあるということになる。ノマドの生活をhomeとし、ハウスレスを自称するファーンだけは、最後の最後まで車上暮らしで、愛車”ヴァン”ガードを走らせてまた次の仕事へと向かうところで、映画は締めくくられる。
ここまで書いてきて、はてと思ったのは、ファーンがノマド生活をhomeとするのは何でだったかなということだ。ファーンはデイヴの家に招かれるままに転がり込むのだが、ベッドの上では眠れず、車にこしらえたベッドへと逃げるように戻ってしまう。実の姉に「あなたはいつもそうだった。」と言われていたから、それはファーンの本性的なものとして理解してしまってよいものだろうか? もう一度見てみようかな、という気分にさせるからこの映画はいい作品だった、とも思う。
私のhomeはどこ、いや何であろう? 皆さんのhomeは何ですか。家、家族、友人、職場……何はとまれ、homeさえあれば人は幸福なのかもしれない。
フランシス・マクドーマンドは本作で三度目のアカデミー主演女優賞を取った。アカデミー主演男優賞を三度とったダニエル・デイ=ルイスはどちらかというと変幻自在のカメレオン俳優という感じだが、彼女はどの作品でも彼女という印象がある。『ファーゴ』でも『スリー・ビルボード』でも、どこか影のある、狂気をはらんだような大人の女性の役がハマりすぎている。いまこの記事を書いていて知ったのだが、リンダ・メイとスワンキーなどの役者は実在人物(一般人でノマド暮らし経験者)をそのままキャスティングしたのだそうだ。演技ではなかったのかもしれないが、素晴らしく画面に映えていた。
音楽と画面も美しい。また何年かして、そう、もっとhomeに対する意識が変わったであろうころに見たいものである。
愛のアスペクト(『パワー・オブ・ザ・ドッグ』感想)
以下あらすじ。冒頭のみ。
100年くらい前のアメリカ西部・モンタナが舞台の物語である。
牧場主のバーバンク兄弟は、大卒インテリなのに荒々しくマッチョ思想な兄のフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)と落第して出来は悪そうだが物腰柔らかの弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)の二人。でこぼこながらも兄弟の絆は確かなようで、若者たちを率いながら牧場経営に精を出す。
あるとき、牛たちを移動させる道すがら、2人をふくむ一行は街道沿いのホテル立ち寄った。そこでは、未亡人のローズ(キルスティン・ダンスト)が経営を切り盛りし、息子のピーター(コディ・スミット=マクフィー)を養っていた。他人に対しても威圧的なフィルはピーターをいびり、ローズはその様に心を痛める。さらにジョージがその様子に心を痛め……。ローズを慰めるうちにジョージは彼女を見初め、求婚、ローズはバーバンク家に嫁入りすることとなった。
しかし、新たに家族となった二人と、ジョージのことが気に入らないフィルは、彼らに攻撃的になっていく。
以下、感想。含ネタバレ。
冒頭からフィルは徹底した「男の子主義」で、やることなすこと考えること全てがマッチョな人物として描かれる。風呂にも入らない、身なりはカウボーイ、バンジョー(?)片手にベッドで横に。バーに着いたらショットを煽る。そして、男がなよなよした様子を見せると即叱咤する。「男のくせに」と。ただ、はじめのほうからちょっとした違和感を覚えるのは、フィルが女に寄り付こうとしないことだ。普通、西部開拓時代の男像といえば、日本のヤクザ映画と同じく「酒!女!金!」だというイメージなのだが、このうち「女」が欠落している。それだけがずーっと違和感として残りながら、映画のストーリーが進行していく。
フィルという人間は、かつてバーバンク兄弟に牧場経営を教えた「ブロンコ・ヘンリー」なる男から多大なる影響を受けている。だから、何かにつけて「ブロンコ・ヘンリーは……」とか「ブロンコ・ヘンリーなら……」とか言うし、彼が使っていた鞍を受け継ぐなどしている。これだけなら、彼に心酔しているのだな、で終わる。ただ、フィルが自分の聖域としている水場で受ける衝撃的な姿で、その理解が甘かったことが明らかとなる。そこでフィルは、乗馬ズボンのまたぐらから黄ばんだ白い布を愛おしそうに取り出す。そしてそれを撫でたり、嗅いだり、戯れたりする。ちらりと見える布に刻まれたイニシャルは、「BH」。そう、フィルがブロンコ・ヘンリーへ抱くのは心酔や敬意を通り越して、愛情であったのだ。これがピーターに知れてからは彼らの関係性が変わっていく。物語が転び始めてからはほのぼのとした、それでいてぴりついた緊張感に満ちていて、最後の30分ほどは特に引き込まれた。久々にいい映画を観た気持ちになった。
さて、私はこの映画は愛の映画であると評することにしよう。
まず、フィルについて。彼はゲイなのだろう。ゲイをテーマとした、自分が見てきた映画でいうと、『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』が印象深い。名作だった。『ムーンライト』が賞レースを総なめしてからはさらにLGBTQ+を扱った作品は多くなってきたように思う。私はヘテロで、ついつい狭い了見で物事を見てしまっていることは自覚しているつもりであったが、今作のフィルを見ていてまたそんな自分に気づかされることになった。「日本人と外国人」と語るように、我々は見知らぬ他者を大きな主語でひとくくりにしがちだ。それはおそらくセクシャリティにおいても同じで、「ゲイ」とひとくくりにしてしまうことは私たちの理解を阻害してしまうのではないだろうか。だって、ヘテロの男が女に愛として求めるものも、母性だったり友情だったりと、多岐にわたるではないか。だから、LGBTQ+というジャンル分けがあって、その中のLやGに分類される人々の中でも、愛のかたちは様々にあるはずなのだ。フィルがブロンコ・ヘンリーに抱く愛は何であったか。フィルは生来のゲイなのではなくて、ブロンコ・ヘンリーという個人に心酔するあまり、いわゆるゲイとくくられる性的傾向を身につけていったように思えた。そこには敬意と情熱などがあふれ、湿っぽいものはないように感じた。そして、その愛は物語の後半でピーターに向けられる愛とは別種のものだろう。フィルはピーターにとってのブロンコになりたかったのではないだろうか。
しかし、そうしたフィルの愛は成就しない。なぜなら、ピーターのローズに対する愛がそれを阻むからだ。ピーターの愛は猛毒で、ローズを傷つけるものは何者でも排除してしまう。それは、フィルだけに限った話ではないということが、エンディングではにおわされていた。
タイトルにもなっている「the power of the dog」とは旧約聖書からの引用だ。この行は原文英訳では「Deliver my soul from the sword; my darling from the power of the dog」となっている。字幕ではmy soulもmy darlingも「私の魂」と訳していたが、ここは「私の魂を剣から、私の愛しい人を犬の力から解放してください」くらいに訳したほうが映画の本筋ともつながってくるのではないだろうか? ピーターにとってローズを傷つけるものこそが「犬の力」であって、それはすなわちフィルのことだったのである。しかし、おそらく、フィルにとってはローズやピーターが「犬の力」であったことと思う。自らの性傾向からすれば2人の存在は異物でしかないからだ。
各々が抱える愛のぶつかり合い。それが今作の本質だ。はじめは何の映画なのかわからないという思いを抱いていたが、この点が見えてからは途端に魅力的な作品へと化ける。荒々しくも切ない愛の物語であった。
ベネディクト・カンバーバッチはうまい! 『シャーロック』ではじめて見たときの感動を思い出した。神経質な人の役をやらせるとハマるね。ジェシー・プレモンスも頼りない男の雰囲気をよく出していた。が、もともとはポール・ダノがこの役にキャスティングされていたそうで、そっちも見たかったなと思ったり。コディ・スミット=マクフィーは不気味なヒョロガリ青年を好演した。ほー、なかなかやるねこの子、はじめて見たけど。と思っていたら『ザ・ロード』の息子役の人だった。大きくなったなあ。いろんな意味で。これからが楽しみ。
奴らには明日はない(『ザ・テキサス・レンジャーズ』感想)
ケビン・コスナーとウディ・ハレルソンのダブル主演による、ある種のロードムービー。
"ボニーとクライド"といえば、人口膾炙と言っても過言ではないほどに著名な、実在の犯罪者カップルである。その生き様はあらゆるフィクションで引用されていることは誰でも知っている。(最近だとゴールデンカムイでも形を変えて引かれているのを見た。)
だが、本作はそういった作品とは一線を画す。主人公はボニー・パーカーでもクライド・バロウでもない。コスナーとハレルソンが演じるのは、彼らを追い詰め、銃弾を浴びせかけた2人の元レンジャー(フランクとメイニー)なのだ。
過去の素行不良で解体したレンジャー組織に属していて、半ばリタイア気味の2人であったが、請われて凶悪犯二人の追跡の任に就くことになる。
歳はとったが格好いいケビン・コスナーが、おじさん腹を揺らして走ったり、アル中の気があるウディ・ハレルソンが千鳥足で奔走したりする様は喜劇的で面白いが、かつてのピストルの腕が鈍りきっているなど、哀愁も感じる。そんな時代に取り残されたような2人だが、それでいて時折見せる年の功に、周りの若者は苦虫を噛み潰すような思いをさせられもする。というこの手の描写はどんなフィクションでもありきたりかな、とも思ったり。
2人は過去に、ならず者の掃討にあたったことがあった。法律に即すと、発砲は相手に最後通告をしてからでないとならないが、そのせいでいたずらに作戦は難航した。そのため、最終的には通告なしに酔って寝込んだならず者を全員撃ち、死体の山を前にフランク・ヘイマー隊長は言ったのだ。手を挙げろ、と。
自分らの仕事の非道さに、複雑な思いをいだくフランクの姿は、ケビン・コスナーの渋みが全開でよかった。ウディ・ハレルソンはいつ見てもいい。あんな薄毛になりたい。この2人のおじさん俳優を楽しむ映画であって、華やかさはなく、地味といえば地味で、言ってしまえば退屈かもしれない。でも、それすなわち悪い映画か。そんなことはないだろう。静かに見るにはおすすめだ。