虱の記

高熱量低脂質。

スウィート・ホーム(『ノマドランド』感想)

 ノマドとは、遊牧民や放浪者を意味する英単語だ。遡ると、フランス語に行き着き、さらに遡ればラテン語、さらにさらに遡るとギリシャ語のノモスに関連する言葉(nemein)に行き着くそうだ。ノマドという言葉の受容史までは文献に当たらないとわからないが、80年代にはドゥルーズがノマディズムを唱えていたから、そのあたりでこの単語が復権して今に至るのではないかと考えている。「ノマドワーカー」なんて言葉も耳にするが、これは実はジャパニーズイングリッシュで、英語にはこの概念はないみたいだ。

 

 さて、本作は現代のノマドの物語である。

 主人公ファーンは、夫を亡くし、さらにはリーマン・ショックの煽りを受けて失業、さらには住む場所も失ってしまう。そこで、愛車(”ヴァン”ガード)に最低限の家財だけを積み込み、仕事を求めてアメリカ各地を放浪する旅に出る。行く先々の場所や勤務先では、ファーンのきさくな人柄もあって、信頼すべき知人・友人にも恵まれた。ファーンは中年女性だけれども、同年代はもちろん、自分よりも高齢のノマドもたくさんいて、しかもそんなノマドたちの集いもあったりで、そんなに寂しくなさそうな暮らしぶりである。でも、ファーンは、周りのノマドたちとはちょっと違う。ファーンは、ガチのノマドなのだ。

 はじめにできたノマド友達であるリンダ・メイは、家を建てるとか何とか言ってノマド生活から抜け出す(実はこのあたり、退屈だったわけでなくこの映画の不思議な浮遊感のおかげで船を漕いでいてしまい、記憶が定かでない)。

 ノマドにとって生命線であるヴァンのタイヤがパンクしたときに助けてくれたスワンキーは、肺がんで余命いくばくもない。だから、最後に見たい景色があった。それはかつて見たアラスカに群集する燕を、カヤックから見上げるというものだった。そこへ向かうために、やっぱりこの先輩もファーンのもとから去ってしまう。

 ちょっとしたロマンスの相手でもあるデイヴは、孫ができることとなって、父親の務めを果たしてこなかったことに気まずさをかかえながら、他ならぬファーンの後押しを受けて、やっぱりノマドの生活から抜け出すことになる。

 ノマド生活で関係の深かった以上の3人は、あれやこれやを経てノマドの生活から離れていくことになってしまうのだ。スワンキーはどうなの、と思うのだが、映画の終盤でファーンのスマホに動画が届く。開いてみると、まさにスワンキーが語っていた燕たちの飛翔ではないか。それを見て、ファーンは、「帰ったのね。」とつぶやく。家ではない、されどhomeである場所へとスワンキーはたどり着いたのだ。

 映画に登場するノマドたちは、皆が皆、ノマド生活を礼賛している。しかし、その気持ちに嘘偽りがなくても、やっぱりノマドになったことには消極的な要因がつきまとっていたのだろう。別の言い方をすると、ファーン以外のノマドたちには、車上生活以外のhomeがあるということになる。ノマドの生活をhomeとし、ハウスレスを自称するファーンだけは、最後の最後まで車上暮らしで、愛車”ヴァン”ガードを走らせてまた次の仕事へと向かうところで、映画は締めくくられる。

 ここまで書いてきて、はてと思ったのは、ファーンがノマド生活をhomeとするのは何でだったかなということだ。ファーンはデイヴの家に招かれるままに転がり込むのだが、ベッドの上では眠れず、車にこしらえたベッドへと逃げるように戻ってしまう。実の姉に「あなたはいつもそうだった。」と言われていたから、それはファーンの本性的なものとして理解してしまってよいものだろうか? もう一度見てみようかな、という気分にさせるからこの映画はいい作品だった、とも思う。

 私のhomeはどこ、いや何であろう? 皆さんのhomeは何ですか。家、家族、友人、職場……何はとまれ、homeさえあれば人は幸福なのかもしれない。

 

 フランシス・マクドーマンドは本作で三度目のアカデミー主演女優賞を取った。アカデミー主演男優賞を三度とったダニエル・デイ=ルイスはどちらかというと変幻自在のカメレオン俳優という感じだが、彼女はどの作品でも彼女という印象がある。『ファーゴ』でも『スリー・ビルボード』でも、どこか影のある、狂気をはらんだような大人の女性の役がハマりすぎている。いまこの記事を書いていて知ったのだが、リンダ・メイとスワンキーなどの役者は実在人物(一般人でノマド暮らし経験者)をそのままキャスティングしたのだそうだ。演技ではなかったのかもしれないが、素晴らしく画面に映えていた。

 音楽と画面も美しい。また何年かして、そう、もっとhomeに対する意識が変わったであろうころに見たいものである。

愛のアスペクト(『パワー・オブ・ザ・ドッグ』感想)

 以下あらすじ。冒頭のみ。

 100年くらい前のアメリカ西部・モンタナが舞台の物語である。

 牧場主のバーバンク兄弟は、大卒インテリなのに荒々しくマッチョ思想な兄のフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)と落第して出来は悪そうだが物腰柔らかの弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)の二人。でこぼこながらも兄弟の絆は確かなようで、若者たちを率いながら牧場経営に精を出す。

 あるとき、牛たちを移動させる道すがら、2人をふくむ一行は街道沿いのホテル立ち寄った。そこでは、未亡人のローズ(キルスティン・ダンスト)が経営を切り盛りし、息子のピーター(コディ・スミット=マクフィー)を養っていた。他人に対しても威圧的なフィルはピーターをいびり、ローズはその様に心を痛める。さらにジョージがその様子に心を痛め……。ローズを慰めるうちにジョージは彼女を見初め、求婚、ローズはバーバンク家に嫁入りすることとなった。

 しかし、新たに家族となった二人と、ジョージのことが気に入らないフィルは、彼らに攻撃的になっていく。

 

 

 以下、感想。含ネタバレ。

 冒頭からフィルは徹底した「男の子主義」で、やることなすこと考えること全てがマッチョな人物として描かれる。風呂にも入らない、身なりはカウボーイ、バンジョー(?)片手にベッドで横に。バーに着いたらショットを煽る。そして、男がなよなよした様子を見せると即叱咤する。「男のくせに」と。ただ、はじめのほうからちょっとした違和感を覚えるのは、フィルが女に寄り付こうとしないことだ。普通、西部開拓時代の男像といえば、日本のヤクザ映画と同じく「酒!女!金!」だというイメージなのだが、このうち「女」が欠落している。それだけがずーっと違和感として残りながら、映画のストーリーが進行していく。

 フィルという人間は、かつてバーバンク兄弟に牧場経営を教えた「ブロンコ・ヘンリー」なる男から多大なる影響を受けている。だから、何かにつけて「ブロンコ・ヘンリーは……」とか「ブロンコ・ヘンリーなら……」とか言うし、彼が使っていた鞍を受け継ぐなどしている。これだけなら、彼に心酔しているのだな、で終わる。ただ、フィルが自分の聖域としている水場で受ける衝撃的な姿で、その理解が甘かったことが明らかとなる。そこでフィルは、乗馬ズボンのまたぐらから黄ばんだ白い布を愛おしそうに取り出す。そしてそれを撫でたり、嗅いだり、戯れたりする。ちらりと見える布に刻まれたイニシャルは、「BH」。そう、フィルがブロンコ・ヘンリーへ抱くのは心酔や敬意を通り越して、愛情であったのだ。これがピーターに知れてからは彼らの関係性が変わっていく。物語が転び始めてからはほのぼのとした、それでいてぴりついた緊張感に満ちていて、最後の30分ほどは特に引き込まれた。久々にいい映画を観た気持ちになった。

 

 さて、私はこの映画は愛の映画であると評することにしよう。

 まず、フィルについて。彼はゲイなのだろう。ゲイをテーマとした、自分が見てきた映画でいうと、『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』が印象深い。名作だった。『ムーンライト』が賞レースを総なめしてからはさらにLGBTQ+を扱った作品は多くなってきたように思う。私はヘテロで、ついつい狭い了見で物事を見てしまっていることは自覚しているつもりであったが、今作のフィルを見ていてまたそんな自分に気づかされることになった。「日本人と外国人」と語るように、我々は見知らぬ他者を大きな主語でひとくくりにしがちだ。それはおそらくセクシャリティにおいても同じで、「ゲイ」とひとくくりにしてしまうことは私たちの理解を阻害してしまうのではないだろうか。だって、ヘテロの男が女に愛として求めるものも、母性だったり友情だったりと、多岐にわたるではないか。だから、LGBTQ+というジャンル分けがあって、その中のLやGに分類される人々の中でも、愛のかたちは様々にあるはずなのだ。フィルがブロンコ・ヘンリーに抱く愛は何であったか。フィルは生来のゲイなのではなくて、ブロンコ・ヘンリーという個人に心酔するあまり、いわゆるゲイとくくられる性的傾向を身につけていったように思えた。そこには敬意と情熱などがあふれ、湿っぽいものはないように感じた。そして、その愛は物語の後半でピーターに向けられる愛とは別種のものだろう。フィルはピーターにとってのブロンコになりたかったのではないだろうか。

 しかし、そうしたフィルの愛は成就しない。なぜなら、ピーターのローズに対する愛がそれを阻むからだ。ピーターの愛は猛毒で、ローズを傷つけるものは何者でも排除してしまう。それは、フィルだけに限った話ではないということが、エンディングではにおわされていた。

 タイトルにもなっている「the power of the dog」とは旧約聖書からの引用だ。この行は原文英訳では「Deliver my soul from the sword; my darling from the power of the dog」となっている。字幕ではmy soulもmy darlingも「私の魂」と訳していたが、ここは「私の魂を剣から、私の愛しい人を犬の力から解放してください」くらいに訳したほうが映画の本筋ともつながってくるのではないだろうか? ピーターにとってローズを傷つけるものこそが「犬の力」であって、それはすなわちフィルのことだったのである。しかし、おそらく、フィルにとってはローズやピーターが「犬の力」であったことと思う。自らの性傾向からすれば2人の存在は異物でしかないからだ。

 各々が抱える愛のぶつかり合い。それが今作の本質だ。はじめは何の映画なのかわからないという思いを抱いていたが、この点が見えてからは途端に魅力的な作品へと化ける。荒々しくも切ない愛の物語であった。

 

 ベネディクト・カンバーバッチはうまい! 『シャーロック』ではじめて見たときの感動を思い出した。神経質な人の役をやらせるとハマるね。ジェシー・プレモンスも頼りない男の雰囲気をよく出していた。が、もともとはポール・ダノがこの役にキャスティングされていたそうで、そっちも見たかったなと思ったり。コディ・スミット=マクフィーは不気味なヒョロガリ青年を好演した。ほー、なかなかやるねこの子、はじめて見たけど。と思っていたら『ザ・ロード』の息子役の人だった。大きくなったなあ。いろんな意味で。これからが楽しみ。

奴らには明日はない(『ザ・テキサス・レンジャーズ』感想)

 ケビン・コスナーウディ・ハレルソンのダブル主演による、ある種のロードムービー

 "ボニーとクライド"といえば、人口膾炙と言っても過言ではないほどに著名な、実在の犯罪者カップルである。その生き様はあらゆるフィクションで引用されていることは誰でも知っている。(最近だとゴールデンカムイでも形を変えて引かれているのを見た。)

 だが、本作はそういった作品とは一線を画す。主人公はボニー・パーカーでもクライド・バロウでもない。コスナーとハレルソンが演じるのは、彼らを追い詰め、銃弾を浴びせかけた2人の元レンジャー(フランクとメイニー)なのだ。

 過去の素行不良で解体したレンジャー組織に属していて、半ばリタイア気味の2人であったが、請われて凶悪犯二人の追跡の任に就くことになる。

 

 歳はとったが格好いいケビン・コスナーが、おじさん腹を揺らして走ったり、アル中の気があるウディ・ハレルソンが千鳥足で奔走したりする様は喜劇的で面白いが、かつてのピストルの腕が鈍りきっているなど、哀愁も感じる。そんな時代に取り残されたような2人だが、それでいて時折見せる年の功に、周りの若者は苦虫を噛み潰すような思いをさせられもする。というこの手の描写はどんなフィクションでもありきたりかな、とも思ったり。

 

 2人は過去に、ならず者の掃討にあたったことがあった。法律に即すと、発砲は相手に最後通告をしてからでないとならないが、そのせいでいたずらに作戦は難航した。そのため、最終的には通告なしに酔って寝込んだならず者を全員撃ち、死体の山を前にフランク・ヘイマー隊長は言ったのだ。手を挙げろ、と。

 

 自分らの仕事の非道さに、複雑な思いをいだくフランクの姿は、ケビン・コスナーの渋みが全開でよかった。ウディ・ハレルソンはいつ見てもいい。あんな薄毛になりたい。この2人のおじさん俳優を楽しむ映画であって、華やかさはなく、地味といえば地味で、言ってしまえば退屈かもしれない。でも、それすなわち悪い映画か。そんなことはないだろう。静かに見るにはおすすめだ。

救う男(『ミッドナイト・スカイ』感想)

ジョージ・クルーニーの宇宙モノというと、キュアロン監督作Gravityを思い出す。それは置いておいて。

人生を投げうって人類の新天地を探した男は、突如終焉を迎えた地球から、新天地を調査して戻る宇宙船員たちを救おうとした。誰かを救いたかったと男は言う。新天地を見出して救おうとした地球文明は、すでに幕を下ろした。彼が救うべき対象は、宇宙にぽつねんと残された5人だけだったのだ。

一難去ってまた一難といった風の展開にはややマンネリを感じざるを得ないところもあった。また、家族のために地球への帰還を選ぶ2人の意思決定が凄く簡単に受けれ入れられてしまうところには疑問を覚えたが、それが家族を思う大人たちってものなのかもしれない。

が、静な画面や時折入るコミカルさがよく、全体の雰囲気はよかった。北極や宇宙の映像もきれい。

ウィットのあるふるい

「僕は麻薬をやったことがないことがコンプレックスなんだ」というのは友人Jが初デートで必ず使う決まり文句らしい。そのワードパワーにはじめて聞いた時は笑い転げたものだけれど、考えてみればなかなかどうして理にかなった文言なのかもしれない。だって、これを聞いて「えっ……」と反応するコはまともすぎて、面白くないことがすぐにわかるからだ。反対に「わかる〜」とか「そうなんだ〜」と返してくるコは有望だ。

狂っているのは、世界か俺か。(『ジョーカー』感想)

この映画に関しては、2つの側面から思うところがあった。まずひとつは、以下に続く本作における「ジョーカー」の新奇さだ。

 

このジョーカーは、我々のよく知っているジョーカーではない。

かつてのオリジンに近いジョーカーは、様々な不幸や災難から発狂して、人は誰しも狂いうるのだということを証明しようとするヴィランだった。この頃は、まだ理由が論理的なためジョーカーがジョーカーたる所以が理解可能で、我々にとって"隣り合う恐怖"であった。それは、自分も彼も、いつの日かひょんなことからジョーカーのようになりかねないという恐ろしさだ。


それに対してノーラン版のジョーカーは、徹底してオリジンの要素を除去していることが大きな特徴だ。指紋もDNAも本名も、頬の傷の由来も結局のところわからない。そんなノーワンとしてのジョーカーは、正義たるバットマンの対照として用意された、絶対悪。そして、我々にとってこのジョーカーは、完全に理解を超えた、非現実的な存在であって、徹底したフィクショナルキャラクターで、それがゆえに高いエンターテインメント性も備えていた。

 

では最新のジョーカーが、2種の先人となにが違うか。

それは、彼が仮面をつけたのではなくて、脱いだ結果としてジョーカーになったのだという一点に尽きる。つまり、私たちは皆、狂っている。気づいていないだけだ。彼は、平常でいられなかっただけ。平常であろうとすることを阻むものが多すぎただけ。

私たちの仮面が全く剥がれるわけがないと、誰が言えるだろう。

 

 

また、もうひとつは映画の中身ではないところで思うところがある。

それは、みんなこの映画を見過ぎでは?ということ。はっきり言って、普段映画を見ない人が喜び勇んで観に行って楽しめる代物ではないだろ、というのが率直なところだ。そもそも、全国区でやるような映画ではない。だって、皆さん、今作をみて「おもしろかった〜〜〜〜〜!!」ってなりましたか? ならないでしょう。全国区で放映される映画ってのはそういうもんだし、そういうもんでなければならないと思う。ところがどっこい、これはそうでない。にも関わらず本作は何故か万人に見られている。不思議だ。今日はこの摩訶不思議な事象について考えていた。

第一に要因となったのは『ダークナイト』だろう。ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、エンターテインメント性と作品性とを橋渡しした。圧倒的な演技で異質な存在を創りあげた。だからこそ、普段から映画を見ない人にも受け入れられたし、正しい楽しみ方ができた。つまり、ノーランやヒース・レジャーの凄まじいのは、観る者たちの鑑賞眼を引き揚げてしまったことなのだ。本来は、小説であれ映画であれ、基本的に鑑賞眼とは鑑賞者の訓練によって高められていくものだが、そのプロセスを無視し、多くの人に「これがいい演技なのだ、いい作品なのだ」ということを知らしめてしまった。『ダークナイト』はそんな問答無用の作品であったから、誰もが見ることができた。誰もが楽しむことができた。誰もが『バットマン』という作品はただのアメコミじゃないし、ジョーカーという奇天烈なキャラクターがいるということを知ることができた。

そんな素地ができていたからこそ、今回の『ジョーカー』のヒットがあるということに否定の余地はないだろう。多くの人は、「あのジョーカーにまた会えるらしい!」と思って映画館へ足を運んだのだ。そして、『ジョーカー』を見て大いに動揺したことだろう。何故なら、銀幕に映し出されたのは、前述の通り皆が知っていたのとは全くちがう道化師であったのだから。そしてまた、感想を述べている人たちがもう少し正直であれば、レビュー欄には「そうでもなかった」というコメントがあふれたはずだと思う。とても日本人らしい反応だとは思うが、声高に作品を称賛するものが3人でもいて、それがそれぞれ100リツイートくらいされれば、ほかの人はもう真っ向から作品を批判することはまずなくなる。要は自分の鑑賞眼に自信がないというか、自称謙虚というか、そんなところがやっぱり日本人にはあるな、と思った。

私自身は今作『ジョーカー』はとても好きである。社会的弱者がとかそういう話ではなくて1にホアキン、2にホアキンだ。『her』のレビューでも述べたが、私はホアキンの狂った演技が好きすぎる。だから本作が好きだ(と本当に)思う皆さんには『ザ・マスター』をおすすめしたい。ホアキンが演じる主人公のキャラクター性は、ジョーカーとも通じるところがある。彼らは2人とも、自ら人生をつかみとることになるのだから。

【映画評】『アス/Us』あらすじ&感想

ゲット・アウト』で一気にスターダムへとのしあがった、ジョナサン・ピール監督の新作。

実は見ていない前作も黒人青年が不条理かつ非合理な窮地に陥るという映画だった(と聞いている)けれども、今作も中心となるのは黒人の一家。

 

<あらすじ>

主人公であり、母であるアディは、かつて遊園地で迷子となってトラウマをかかえ、失語症を患ったことがある。現在はそれも克服し、家庭を築き、2人の子宝にも恵まれ、幸せな生活を送っていた。

家族とともにバカンスで訪れた別荘地でのこと。夜中、停電が起きたかと思うと、玄関先に4人の家族が手を繋いで立ち尽くしていることに気づく。全身赤い服。呼びかけにも応じない。異様である。夫のゲイブが金属バットを持ち出して威嚇するも、家族はひるむどころかむしろ、扉を押し破って邸宅の中へ。

暖炉の火で明るみに出た赤い家族らの顔は見慣れたものだった。アディの子、ジェイソンは呟く。

「僕たちだ」

 

 

〈感想〉

まずは、面白かった。久しぶりの映画鑑賞ということもあって、とても楽しめたと思う。

じゃあ何が良かったのか、といえばそれは第一に、全く事情が読み込めない非合理的、不条理な展開が恐怖を駆り立てること。自分と全く同じ顔、背格好の人間が、自分を襲ってくる。ただし赤の彼らは顔が半分焼けただれていたり、笑顔が顔に貼り付いていたりで、明らかに怪異的な存在である。何が起きているのか、何が目的なのかがわからない怖さ。

第二に、何かしらの寓意を含むであろう描写や台詞回しが多く、退屈しない。例えば、赤の家族は何者かと問われ、「我々はアメリカ人だ。」と答える。物語の中で重要な役割を持つ、アディが迷子になったアトラクションのサブタイトルが"Find Yourself"である。赤の者たちは基本的には人語を解さない。基本的に赤の者は自分と対となる人物しか殺めていない。などなど、挙げだすとキリがないほどだ。だからこそ、物語の筋を追いながらも頭ではいろいろなことを考えていた。その点が、視聴後のほどよい気だるさを与えてくれたように思う。

最後に、これは附随的であるけれど、ところどころによいユーモアが配されていた。緊張と緩和というか、多すぎず少なすぎないその笑いが、自分に映画を食いつくように見させた一因であるように感じる。

 

恐怖、寓意、ユーモアのバランスのよい佳作。

(だが、久しぶりの映画鑑賞にあたっての随伴者となったN君は、釈然としない部分があったようだ。この映画の恐怖の源泉は、不条理と非合理にあると思うのだが、終盤において、なぜかその点に対するSF的ともいえる理由づけが急に行われたからだ。たしかに、自分もあの説明は不要であったように思うので、N君の煮え切らない感はよくわかる。)

 

先述の通り、寓意が散りばめられているので、その解釈を楽しむこともできるはず。ただし、あくまで今作は「アメリカ映画」であって、当国を肌で感じている人にしかわからないことが多分にある思われる。

 

自分の想像では、テザードの赤い服は人間の獣性を表していて、「教育やラグジュアリーの仮面をひっぺがしちまえば、お前らこんなもんだぞ」ってことを見せたかったのではないかと思う。あるいはそれに絡めて、普段虐げられている人々も、根底では同じ人間で、富や幸福の影の部分なんだ、ということなのかもしれない。