I'm Happy, she said.
友人B氏がそのまた友人の結婚式に行ったらしい。
式自体がどうであったか彼は話さなかったが、いまどきあらゆる式と名のつくものは均質化されていて、毛ほども面白くないのだから聞かなくてよかったと思う。
とまれ、Bはそこで元カノと呼ばれる類の女に出会ったのだ。そしてその女は言ったらしい。
「今度、結婚するんだ」
いったいぜんたい、昔の恋人に出くわした時のえもいわれぬやるせなさはどこから来るのか。というか、やるせないって言葉はこの時だけのためにあるんじゃないかってくらいだ。あれは独特の情緒すぎて、説明に困る。
思うに、恋人というのは人生の中で出会う人の中でも相当に異色を放つ存在だ。一緒に飯を食う、遊びに行く、手を繋ぐ、セックスする、喧嘩する。ここまでは恋人とじゃなくてもできる(たぶん)。でも、恋人にしかない、恋人としか経験できないものがあるからこそワタクシたちはやるせなさにも苦しむのじゃなかろうか。おそらくは、将来性、未来性、可能性と言ったものども。今度はどこに行こうかな。あれもしたいこれもしたい、一緒に。この人と続くかな。結婚?「恋人」と書いて「ミライ」と読んでもいい。そこには、自身の「これから」が開示されている。だからこそ、明るく開かれてるうちはワクワクドキドキだし、暗く開かれてるときはどうにかして照らしてやろうとあくせくするし、もしかするとあきらめてしまうこともあるかもしれない。だいたいの人には正の走光性があるから。
やるせないのは、原因がどうあれ、自分が捨てた「これから」を正面から叩きつけられるからだ。ギャルゲーで言えばルート分岐の選択肢。ただしセーブ&ロードはきかない。どんなカイショーナシ男でもウワキショー女だろうと、そこには一瞬の未来があった。
昔の恋人というのは、自分が選ばなかった、いや選べなくてくずかごに放り込まれた自分そのものなのだ。そう思うと、お気に入りだったのに、ハードに扱いすぎて壊れ果て、腕がもげたり色が剥がれたりして押入れにしまいこまれた、あの怪獣人形たちの瞳を思い出す。
「別れてせーせーした! 何よあんな男!」 これはバッドエンドを回避したのだから正しいコメントだ。ただし自己弁護でもある。ひとつの未来が失われたことに違いはない。やるせない。
B氏もやはりやるせなさにとらわれたそうだが、彼はそれでも言葉を返した。
「よかったね」
これ、スゴくないですか。ワタクシにはできません。
何を隠そう、ワタクシも先日昔の女と話をする機会があった。こちらから用があって連絡をとった。いまは別の彼がいて、楽しくやってるみたいだ。そこには嫉妬や怒りはなくて、ただただやるせない(自分から連絡したのに)。
スマホごしに様々話して、別段昔に思いを馳せるなんてこともなかったけども、終わりに彼女は言った。
「あなたは幸せになると思ってる」
君とはなれなかったけどな。
グッバイ、マイフューチャー。