虱の記

高熱量低脂質。

狂っているのは、世界か俺か。(『ジョーカー』感想)

この映画に関しては、2つの側面から思うところがあった。まずひとつは、以下に続く本作における「ジョーカー」の新奇さだ。

 

このジョーカーは、我々のよく知っているジョーカーではない。

かつてのオリジンに近いジョーカーは、様々な不幸や災難から発狂して、人は誰しも狂いうるのだということを証明しようとするヴィランだった。この頃は、まだ理由が論理的なためジョーカーがジョーカーたる所以が理解可能で、我々にとって"隣り合う恐怖"であった。それは、自分も彼も、いつの日かひょんなことからジョーカーのようになりかねないという恐ろしさだ。


それに対してノーラン版のジョーカーは、徹底してオリジンの要素を除去していることが大きな特徴だ。指紋もDNAも本名も、頬の傷の由来も結局のところわからない。そんなノーワンとしてのジョーカーは、正義たるバットマンの対照として用意された、絶対悪。そして、我々にとってこのジョーカーは、完全に理解を超えた、非現実的な存在であって、徹底したフィクショナルキャラクターで、それがゆえに高いエンターテインメント性も備えていた。

 

では最新のジョーカーが、2種の先人となにが違うか。

それは、彼が仮面をつけたのではなくて、脱いだ結果としてジョーカーになったのだという一点に尽きる。つまり、私たちは皆、狂っている。気づいていないだけだ。彼は、平常でいられなかっただけ。平常であろうとすることを阻むものが多すぎただけ。

私たちの仮面が全く剥がれるわけがないと、誰が言えるだろう。

 

 

また、もうひとつは映画の中身ではないところで思うところがある。

それは、みんなこの映画を見過ぎでは?ということ。はっきり言って、普段映画を見ない人が喜び勇んで観に行って楽しめる代物ではないだろ、というのが率直なところだ。そもそも、全国区でやるような映画ではない。だって、皆さん、今作をみて「おもしろかった〜〜〜〜〜!!」ってなりましたか? ならないでしょう。全国区で放映される映画ってのはそういうもんだし、そういうもんでなければならないと思う。ところがどっこい、これはそうでない。にも関わらず本作は何故か万人に見られている。不思議だ。今日はこの摩訶不思議な事象について考えていた。

第一に要因となったのは『ダークナイト』だろう。ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、エンターテインメント性と作品性とを橋渡しした。圧倒的な演技で異質な存在を創りあげた。だからこそ、普段から映画を見ない人にも受け入れられたし、正しい楽しみ方ができた。つまり、ノーランやヒース・レジャーの凄まじいのは、観る者たちの鑑賞眼を引き揚げてしまったことなのだ。本来は、小説であれ映画であれ、基本的に鑑賞眼とは鑑賞者の訓練によって高められていくものだが、そのプロセスを無視し、多くの人に「これがいい演技なのだ、いい作品なのだ」ということを知らしめてしまった。『ダークナイト』はそんな問答無用の作品であったから、誰もが見ることができた。誰もが楽しむことができた。誰もが『バットマン』という作品はただのアメコミじゃないし、ジョーカーという奇天烈なキャラクターがいるということを知ることができた。

そんな素地ができていたからこそ、今回の『ジョーカー』のヒットがあるということに否定の余地はないだろう。多くの人は、「あのジョーカーにまた会えるらしい!」と思って映画館へ足を運んだのだ。そして、『ジョーカー』を見て大いに動揺したことだろう。何故なら、銀幕に映し出されたのは、前述の通り皆が知っていたのとは全くちがう道化師であったのだから。そしてまた、感想を述べている人たちがもう少し正直であれば、レビュー欄には「そうでもなかった」というコメントがあふれたはずだと思う。とても日本人らしい反応だとは思うが、声高に作品を称賛するものが3人でもいて、それがそれぞれ100リツイートくらいされれば、ほかの人はもう真っ向から作品を批判することはまずなくなる。要は自分の鑑賞眼に自信がないというか、自称謙虚というか、そんなところがやっぱり日本人にはあるな、と思った。

私自身は今作『ジョーカー』はとても好きである。社会的弱者がとかそういう話ではなくて1にホアキン、2にホアキンだ。『her』のレビューでも述べたが、私はホアキンの狂った演技が好きすぎる。だから本作が好きだ(と本当に)思う皆さんには『ザ・マスター』をおすすめしたい。ホアキンが演じる主人公のキャラクター性は、ジョーカーとも通じるところがある。彼らは2人とも、自ら人生をつかみとることになるのだから。