虱の記

高熱量低脂質。

死(転載)

こちら、2014年9月15日の自身のmixi日記を発掘したもの。

5年前の僕が書いた文章、今よりこなれてる気がする。書くのが下手になったかな?

 

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 町内の回覧版で訃報が届いた。 

 近所の老夫婦が逝去されたとのことだった。ことの次第は詳しくはわからないが、病で臥せっていたいた夫人が亡くなり、主人もそのあとを追って自死したということらしい。

 これをどうとらえればよいのか、という問題でここ数日逡巡している。或る人にかかれば夫婦の愛の強さを物語る美談となるだろうし、また或る人にかかれば命を粗末にした醜聞となるだろう。 
 まず、死について自分の態度を定めておかなければならない。死とは何か? 
 よく、「死とは唯一万人に平等なものだ」という言説を聞く。私はまるでこの言い分には賛同する気がない。なぜならば、ここでいう死の平等性とは、観測不可能性と同義であるからだ。「富めるものも貧しきものも、死ねば終わる。何も残らない。だから死とは平等なのだ」と言われても、我々は死後の世界を垣間見る術を持たない。この言い分は、死(および死後)について十分な観測と解釈がなされて初めて成立するものだと思う。 
 だから私は、死は決して等しいものだとは思わない。いや、正確にいえばこうだ。「死とは、その動機、実際に死へと至るプロセス、そしてその後の影響という点において十人十色である」。 
 では、死はポジティブなものなのか、はたまたネガティブなものなのかというところもはっきりさせておかねばなるまい。自殺者が増大しているこの時勢もあるのだろうが、人々は死をネガティブにとらえている節があるように思う。私も幼いころ、死というものを考えるようになって、どうしようもない恐怖にかられた記憶が甦る。それからある程度、歳をとって、自分なりに先述のような思想にたどりつき、気休めの安寧に浸かっていたように感じる。「誰もが死ぬのだから、考える必要はない」というのは、思考の放棄でしかない。もっとも、若い時分にはそれで十分なのかもしれないが。 
 いま、私は、死をどうとらえればよいのだろうか。 
 つい昨日、立花隆氏による臨死体験をめぐるドキュメンタリーが放送されていた。それによれば、臨死体験というものは確かに存在するというのが、最近の脳科学の分野で明らかになったのだそうだ。脳のなかの最も原始的な部位である、辺縁系がそれを我々に見せるらしい。では、なぜ辺縁系にそのような機能が備わったのか、という疑問が当然浮かぶ。だが、科学の目的は「どのように現象がおこるのか」を明らかにすることにあって、「なぜ現象がおこるのか」という部分はわからないし、そもそもWHYの究明は目指していない、と、何とも煙に巻かれたように締めくくられてしまった。だが、通常の科学番組と違うのは、案内役である立花氏がひとつの解釈を提示してくれたことだ。氏曰く、「我々は、エピクロスが言ったようなアタラクシアに自ら到達するための機能を備えているのではないか」。 
 死をポジティブにとらえる糸口が見えた気がした。そもそも、生物という観点ではその目的は繁殖に終始する。だが、精神を手に入れてしまった我々には、それだけに没頭することは許されない。ならば、何かしらのことをなさねばならない、という強迫観念にかられるような気もするが、それも違うと思う。二十余年しか生きていない身空では、人生が何なのかということは到底理解できないし、持論も提示できないが、ひとつだけ死に対面して目標がある。 

 死するならば笑って、である。