虱の記

高熱量低脂質。

じっくり味わう、ということ。

最近の子どもは、無気力だ、無感動だという文章を読んだ。ワタクシはもう子どもと呼ばれるような年齢ではないものの、その文章のなかで「子ども」と呼ばれるような世代の人間であるわけで、思い当たる節もあったりして、ちょっと耳が痛いような思いがした。でも、そこはグッと飲み込んで作者の言いたい事に寄り添ってみて、発見したことがあった(これができるのが"オトナ"ってやつでは?)。

 

作者曰く、最近の子どもは日記が書けない。理由を聞けば、「だって、昨日は何もしなかったから」。これは凄くわかる。なぜなら何を隠そうこのワタクシも、mixi全盛の頃、誰に頼まれたわけでもないのに「これから毎日書きます!」と宣言して、1,2日はいいのだけれど、3日目あたりから書くことがないと思いだし、結局1週間くらいで更新を続けられなくなった経験があったからだ。

今でも覚えてるのは、自分の日記に「無題」というタイトルのものが多かったこと。たぶん、タイトルから入ろうとしていたのだろうなと推測する。タイトルから入るというのは、何かのトピックやエピソードから入ることになるわけだから、何か興味深い・心に響く・腹の虫が収まらないような事柄がないと書けなくなってしまう。そんな日記に、なんの変哲もない日常が入り込む隙はなかったのだろう。

 

書こうと思っていたことからはズレるが、ここで思い当たったことがある。なぜ自分はタイトルから書こうとしていたか。それには疑いようもなく、小学校からの作文教育が影響していたように思う。タイトルというのは曲者で、書き上げようとしているものによってはじめに考えるか、あとから考えるかを使い分けるのが望ましい、と思っている。ちなみにこのブログでは後者の方法をとっている。随想なんてものはとにかく筆に任せて書いていればいいわけで、題名なんてものをはじめにつけたら筆が縛りつけられてしまうからだ。世の著述家によってもどちらから入るかは得手不得手時と場合によってわかれるだろうが、現代の作文教育の題名(と自分の名前)からはじめましょう!という風潮にはちょっとした弊害がありそうだ。それは内省を許さない風潮であるように思う。

 

閑話休題。話を戻す。

件の作者がその子どもに指導したのは、「何もなかったということを書けばいい。何もなかったことへの悲観でも、楽観でもよい。その日考えたことを書け」といったことであった。なるほどこれは一理ある。書くという行為の可能性は無限であって、綴っているうちに自分の思いもよらなかった発想へと至ることが少なくない。かくいう自分も、書いていて前段の作文教育への疑問を思いついたのである。日記ないし随筆の機能というのは、本来は実に個人的かつ利己的なものであるのだろうと実感した。思考の整理、というと外山氏のようであるが、書くという行為がその一助となることは間違いなかろう。

ここで前述のこぼれ話とつながってくる部分があるわけだが、現代は何かとエピソード性の強さが取り沙汰される時代であると思う。ネットニュースのタイトルも、ツイッターの投稿もそうだ。芸人の一発芸もそうかもしれない。短い言葉に込められたインパクトが重視されすぎている気がする。堪え性がないというべきか。コンテンツが溢れる時代、読むもの見るものが多すぎる時代、その中にあって我々は、ひとつのものを吟味するということを忘れつつあるのではなかろうか。

 

話が遠くまで来すぎてしまった。締まらないが、結論を急ぐことでもない。とりあえずは、今日はここで筆を置くことにする。