虱の記

高熱量低脂質。

開襟セヨ。

自分語りが嫌い、という話。

 

ネットで自分語りを見かけ、ひとりイライラしていてふと我に帰る。なんで俺、こんなことにキレてんだよと。

 

考えてみれば「自分語り」そのものが嫌いなわけではなくて、面と向かって人の話を聞くのは大好きだし、それが波乱万丈赤裸々空前絶後前代未聞な話であったときなどは思わず拍手してしまいそうになる。たとえその話の中身や運びがお粗末なものであったとして、一向に構わない。その人の人となりが表れたエピソードや語り口は、何かしらの恩恵を自分にもたらしてくれると信じているからだ。人生を垣間見られる、その一点に尽きる。この意味で、人の話を聞くというのは、僕にとっては映画を一本見るというのと凄く似ている。

 

(ところで、あらゆる「話」の成立不成立をめぐっては、話し手の責任が取り沙汰されがちだ。「あの人は話がつまらないからイヤだ」というアレ。たしかに、話し手の側の責任は大きい。もし、話を聞いて"もらって"いるのなら、相手を愉しませねばならないという義務が発生することは間違いない。だが、単純にそこに現れる不和の原因が話が面白い如何によるかといえば、そうでないと思う。だって、僕、つまらない話でもストレスフリーに聞けるし。話のエピソード性というよりかは、話し手の態度による問題のほうが大きいのではなかろうか。つまらない話を「つまらない話なんだけどさ…」と始める人の話はいくらでも聞けるが、「俺の話を聞けよ!」ってオーラばりばりで始められると気が滅入る。それだけのことじゃなかろうか。だとすると、今度は「聞き手の責任」について考えないとならない。人の話を聞くのにもコツがあると思っていて、それは、聞き手は聞き手としての責任を果たさねばならないということだ。なぜなら、話し手はある種の覚悟をもって自己開示をしているのだから。「話」というのが相互の合意の上に成り立っているとするなら、話し手の語りかけに応じた以上は、「聞く責任」がある。ここで気をつけたいのはあくまで「聞く責任」であるということで、「金言を授けねばならない」という責任はよほどの場合は発生しないということだ。もし、話し手が生産的な対話がしたいと思っているのであれば「話」の主題を「自分」に置くことはないだろう。対象は何かしらの事柄に置かれるはずだ。この点を履き違えると、お互いに結構なストレスを抱えることになってしまう。

余談だが、先日読んだ文章で、「"話し下手""口下手"とはよく言うが、"聞き下手""耳下手"という言い回しは滅多に使われない、というか、存在しない。それだけ、日本語の意識世界の中では"聞く"ことへの能動性が取り沙汰されてこなかったのだ」とされていて、なるほどなぁと思った。)

 

はじめの話。自分語り自体が嫌いなわけではないとしたら、じゃあ何が気に食わないのか? 

 

ひとつには、それがネットという場での行為であることに対する違和感だと思う。

日本人は厳格な個人領域を持っている。その領域は自分の体の大きさよりも決して大きくなく、小さくもない。つまり、日本人の体と個人領域はほぼ一致しているものだ。だからこそ、日本の文化のなかではごく小さな身体接触ですら、何か特別な意味を持つことになる。欧米の人たちが挨拶がわりにハグ、キスをすることとはよい対照を成していると言えるだろう。彼らの個人領域はむしろ、共同的に延長している。

そして、日本人の領域感覚において厄介なのは、それが閉じられた公的空間で欧米人達のように共同領域として延長されることはなく、新たな領域が設定されてしまうところにある。社会的領域とでもいうこの領域には、その場の全員でその場をつくりあげているという感覚があり、往々にして、その「場」というのは緊張感を伴う絶対相互不可侵の領域である。互いに間違いなく存在していて、存在を認識しているのだが、互いに最大限「公的でなければならない。たとえるなら全員で石ころ帽子をかぶっているような状態。だから、その社会的領域に個人領域を持ち込もうものなら、冷ややかな視線と咳払いで黙殺されてしまう。皆さんも、電車でメイクしてるお姉さんを睨んだりしてませんか。欧米では車内通話がNGじゃないところもあるそうですよ。

 

このような感覚が日本人にあるとすれば、人前で必要以上に喋ることをはしたないと切って捨てた価値観もうなずけると思うのだ。そして、僕の自分語りへの嫌悪も説明できてしまう。端的に、ものすごーく平たく言ってしまえば、「そういうのは飲み会でヤレ」って思ってしまってムカつくのだ。誰だよお前って。

 

でもそれを、面と向かって自分を語る彼に向かって言って叱責するまでの正当性は僕にはない。だって、長々と分析しておいてなんだけれども、あくまで個人の感覚の話でしかないのだから。彼と僕とでは、上述の領域の測り方が違うのだと思う。彼にとっては、ネットで呟きを見合う何千何万人という範囲が共有領域であって、彼はもしかしたら、見知らぬ誰かの自分語りに付き合って、自死を思い留めさせたりもしているのかもしれない。そう考えると、彼は心が広い。自分は狭い。誰にでも自分を出せるのはある意味、羨ましい。

 

でもそうはなれない。僕が自分を出すのは世界のうちで一握りの人に対してであって欲しいから。願わくば、出させて欲しいから。頼むよ。