虱の記

高熱量低脂質。

奴らには明日はない(『ザ・テキサス・レンジャーズ』感想)

 ケビン・コスナーウディ・ハレルソンのダブル主演による、ある種のロードムービー

 "ボニーとクライド"といえば、人口膾炙と言っても過言ではないほどに著名な、実在の犯罪者カップルである。その生き様はあらゆるフィクションで引用されていることは誰でも知っている。(最近だとゴールデンカムイでも形を変えて引かれているのを見た。)

 だが、本作はそういった作品とは一線を画す。主人公はボニー・パーカーでもクライド・バロウでもない。コスナーとハレルソンが演じるのは、彼らを追い詰め、銃弾を浴びせかけた2人の元レンジャー(フランクとメイニー)なのだ。

 過去の素行不良で解体したレンジャー組織に属していて、半ばリタイア気味の2人であったが、請われて凶悪犯二人の追跡の任に就くことになる。

 

 歳はとったが格好いいケビン・コスナーが、おじさん腹を揺らして走ったり、アル中の気があるウディ・ハレルソンが千鳥足で奔走したりする様は喜劇的で面白いが、かつてのピストルの腕が鈍りきっているなど、哀愁も感じる。そんな時代に取り残されたような2人だが、それでいて時折見せる年の功に、周りの若者は苦虫を噛み潰すような思いをさせられもする。というこの手の描写はどんなフィクションでもありきたりかな、とも思ったり。

 

 2人は過去に、ならず者の掃討にあたったことがあった。法律に即すと、発砲は相手に最後通告をしてからでないとならないが、そのせいでいたずらに作戦は難航した。そのため、最終的には通告なしに酔って寝込んだならず者を全員撃ち、死体の山を前にフランク・ヘイマー隊長は言ったのだ。手を挙げろ、と。

 

 自分らの仕事の非道さに、複雑な思いをいだくフランクの姿は、ケビン・コスナーの渋みが全開でよかった。ウディ・ハレルソンはいつ見てもいい。あんな薄毛になりたい。この2人のおじさん俳優を楽しむ映画であって、華やかさはなく、地味といえば地味で、言ってしまえば退屈かもしれない。でも、それすなわち悪い映画か。そんなことはないだろう。静かに見るにはおすすめだ。

狂っているのは、世界か俺か。(『ジョーカー』感想)

この映画に関しては、2つの側面から思うところがあった。まずひとつは、以下に続く本作における「ジョーカー」の新奇さだ。

 

このジョーカーは、我々のよく知っているジョーカーではない。

かつてのオリジンに近いジョーカーは、様々な不幸や災難から発狂して、人は誰しも狂いうるのだということを証明しようとするヴィランだった。この頃は、まだ理由が論理的なためジョーカーがジョーカーたる所以が理解可能で、我々にとって"隣り合う恐怖"であった。それは、自分も彼も、いつの日かひょんなことからジョーカーのようになりかねないという恐ろしさだ。


それに対してノーラン版のジョーカーは、徹底してオリジンの要素を除去していることが大きな特徴だ。指紋もDNAも本名も、頬の傷の由来も結局のところわからない。そんなノーワンとしてのジョーカーは、正義たるバットマンの対照として用意された、絶対悪。そして、我々にとってこのジョーカーは、完全に理解を超えた、非現実的な存在であって、徹底したフィクショナルキャラクターで、それがゆえに高いエンターテインメント性も備えていた。

 

では最新のジョーカーが、2種の先人となにが違うか。

それは、彼が仮面をつけたのではなくて、脱いだ結果としてジョーカーになったのだという一点に尽きる。つまり、私たちは皆、狂っている。気づいていないだけだ。彼は、平常でいられなかっただけ。平常であろうとすることを阻むものが多すぎただけ。

私たちの仮面が全く剥がれるわけがないと、誰が言えるだろう。

 

 

また、もうひとつは映画の中身ではないところで思うところがある。

それは、みんなこの映画を見過ぎでは?ということ。はっきり言って、普段映画を見ない人が喜び勇んで観に行って楽しめる代物ではないだろ、というのが率直なところだ。そもそも、全国区でやるような映画ではない。だって、皆さん、今作をみて「おもしろかった〜〜〜〜〜!!」ってなりましたか? ならないでしょう。全国区で放映される映画ってのはそういうもんだし、そういうもんでなければならないと思う。ところがどっこい、これはそうでない。にも関わらず本作は何故か万人に見られている。不思議だ。今日はこの摩訶不思議な事象について考えていた。

第一に要因となったのは『ダークナイト』だろう。ヒース・レジャーが演じたジョーカーは、エンターテインメント性と作品性とを橋渡しした。圧倒的な演技で異質な存在を創りあげた。だからこそ、普段から映画を見ない人にも受け入れられたし、正しい楽しみ方ができた。つまり、ノーランやヒース・レジャーの凄まじいのは、観る者たちの鑑賞眼を引き揚げてしまったことなのだ。本来は、小説であれ映画であれ、基本的に鑑賞眼とは鑑賞者の訓練によって高められていくものだが、そのプロセスを無視し、多くの人に「これがいい演技なのだ、いい作品なのだ」ということを知らしめてしまった。『ダークナイト』はそんな問答無用の作品であったから、誰もが見ることができた。誰もが楽しむことができた。誰もが『バットマン』という作品はただのアメコミじゃないし、ジョーカーという奇天烈なキャラクターがいるということを知ることができた。

そんな素地ができていたからこそ、今回の『ジョーカー』のヒットがあるということに否定の余地はないだろう。多くの人は、「あのジョーカーにまた会えるらしい!」と思って映画館へ足を運んだのだ。そして、『ジョーカー』を見て大いに動揺したことだろう。何故なら、銀幕に映し出されたのは、前述の通り皆が知っていたのとは全くちがう道化師であったのだから。そしてまた、感想を述べている人たちがもう少し正直であれば、レビュー欄には「そうでもなかった」というコメントがあふれたはずだと思う。とても日本人らしい反応だとは思うが、声高に作品を称賛するものが3人でもいて、それがそれぞれ100リツイートくらいされれば、ほかの人はもう真っ向から作品を批判することはまずなくなる。要は自分の鑑賞眼に自信がないというか、自称謙虚というか、そんなところがやっぱり日本人にはあるな、と思った。

私自身は今作『ジョーカー』はとても好きである。社会的弱者がとかそういう話ではなくて1にホアキン、2にホアキンだ。『her』のレビューでも述べたが、私はホアキンの狂った演技が好きすぎる。だから本作が好きだ(と本当に)思う皆さんには『ザ・マスター』をおすすめしたい。ホアキンが演じる主人公のキャラクター性は、ジョーカーとも通じるところがある。彼らは2人とも、自ら人生をつかみとることになるのだから。

【映画評】『アス/Us』あらすじ&感想

ゲット・アウト』で一気にスターダムへとのしあがった、ジョナサン・ピール監督の新作。

実は見ていない前作も黒人青年が不条理かつ非合理な窮地に陥るという映画だった(と聞いている)けれども、今作も中心となるのは黒人の一家。

 

<あらすじ>

主人公であり、母であるアディは、かつて遊園地で迷子となってトラウマをかかえ、失語症を患ったことがある。現在はそれも克服し、家庭を築き、2人の子宝にも恵まれ、幸せな生活を送っていた。

家族とともにバカンスで訪れた別荘地でのこと。夜中、停電が起きたかと思うと、玄関先に4人の家族が手を繋いで立ち尽くしていることに気づく。全身赤い服。呼びかけにも応じない。異様である。夫のゲイブが金属バットを持ち出して威嚇するも、家族はひるむどころかむしろ、扉を押し破って邸宅の中へ。

暖炉の火で明るみに出た赤い家族らの顔は見慣れたものだった。アディの子、ジェイソンは呟く。

「僕たちだ」

 

 

〈感想〉

まずは、面白かった。久しぶりの映画鑑賞ということもあって、とても楽しめたと思う。

じゃあ何が良かったのか、といえばそれは第一に、全く事情が読み込めない非合理的、不条理な展開が恐怖を駆り立てること。自分と全く同じ顔、背格好の人間が、自分を襲ってくる。ただし赤の彼らは顔が半分焼けただれていたり、笑顔が顔に貼り付いていたりで、明らかに怪異的な存在である。何が起きているのか、何が目的なのかがわからない怖さ。

第二に、何かしらの寓意を含むであろう描写や台詞回しが多く、退屈しない。例えば、赤の家族は何者かと問われ、「我々はアメリカ人だ。」と答える。物語の中で重要な役割を持つ、アディが迷子になったアトラクションのサブタイトルが"Find Yourself"である。赤の者たちは基本的には人語を解さない。基本的に赤の者は自分と対となる人物しか殺めていない。などなど、挙げだすとキリがないほどだ。だからこそ、物語の筋を追いながらも頭ではいろいろなことを考えていた。その点が、視聴後のほどよい気だるさを与えてくれたように思う。

最後に、これは附随的であるけれど、ところどころによいユーモアが配されていた。緊張と緩和というか、多すぎず少なすぎないその笑いが、自分に映画を食いつくように見させた一因であるように感じる。

 

恐怖、寓意、ユーモアのバランスのよい佳作。

(だが、久しぶりの映画鑑賞にあたっての随伴者となったN君は、釈然としない部分があったようだ。この映画の恐怖の源泉は、不条理と非合理にあると思うのだが、終盤において、なぜかその点に対するSF的ともいえる理由づけが急に行われたからだ。たしかに、自分もあの説明は不要であったように思うので、N君の煮え切らない感はよくわかる。)

 

先述の通り、寓意が散りばめられているので、その解釈を楽しむこともできるはず。ただし、あくまで今作は「アメリカ映画」であって、当国を肌で感じている人にしかわからないことが多分にある思われる。

 

自分の想像では、テザードの赤い服は人間の獣性を表していて、「教育やラグジュアリーの仮面をひっぺがしちまえば、お前らこんなもんだぞ」ってことを見せたかったのではないかと思う。あるいはそれに絡めて、普段虐げられている人々も、根底では同じ人間で、富や幸福の影の部分なんだ、ということなのかもしれない。

恋の壁(『her 世界でひとつの彼女』 感想)

とてもよかった。面白かった。

 


曰く、「自分の殻にこもった」ことで妻に出ていかれた男が、新開発されたOS(AI)と恋に落ちる……っていうあらすじだけ聴くと、ナードやギーク、もしくはオタクが主人公の映画という気がしてしまうが、そういうわけでもない。だって、そもそも舞台は人々が常に耳にインカムをつけて、AIに音声で指示を飛ばし、情報を得ながら暮らしているような世界(時代)だ。だから電車の中では乗客がみな、中空にむけて喋りつづけている。こちらからすりゃかなり異様。

 


そんな世界なので、AIはだいぶ身近な存在らしい。主人公が「新しい恋人はAIだ」とカミングアウトすると、周囲は「マジ!?サイコーじゃん!」「今度ダブルデートしようぜ!」などと反応する。これを異常ととるかこの世界の正常ととるかは人によりけりかもしれないが、おそらく後者だと思う。というかそう見た方が楽しくないですか。でないと、終始「うわぁ〜」と思いながら見ることになってしまいますよ。

 


AIというのが固定観念を呼び起こしてしまう。姿形も見えない、どこにでもいてどこにもいない高次の情報存在との、それはそれは真剣な交際だと見るととても切ない映画だ。お互いの存在のあり方の違いをどうにかして埋めようとする2人の様は見ていてもどかしくすらある。

 


ホアキン・フェニックスは『ザ・マスター』でもそうだったように、塞ぎ込んだ微狂人の演技が上手すぎる。声だけでサマンサを具現化したスカーレット・ヨハンソンもあっぱれ。キャサリンがリスベットとは気づかなかった。

俺は一人だ、なんて言うなよ(『グリーンブック』感想)

小気味よいユーモアにあふれ、笑みをこぼしながら見ることができる良作。 

「インテリ黒人と粗野な白人」のコントラストが、レイシズムを生み出した背景にあったであろう「文明と野蛮」の二項対立と対照を成しているように見えた。 

ドクの影響でトニーは差別意識を薄めたり、教養を身につけていったりする。また逆にトニーの影響でドクはかつてならば「低俗」と切って捨てたであろうあれこれにふれるようになるし、孤独や抑圧に向き合うようになる。互いが互いに影響されつつ、善くなっていくさまは見ていて気持ちがいいのである。 

彼ら二人は当時のアメリカでは(もしかすると今のアメリカでも)はみ出し者なのである。居場所がないのである。でも、考えてみればそれは彼らだけの問題だろうか。なぜなら、どんな人間も、どこかの局面では孤独だからだ。学校でも会社でも、孤独な瞬間のない人間などどこにもいない。大切なのは、自分がよすがをどこに求めるかだろう。「俺は孤独だ」と割り切った顔をして、差し伸べられた手をふりほどいたり、届きそうなのに手を伸ばさなかったりということはしないようにしたい。それはただの弱虫だ。はじめは断りながらも、改めてトニーの家を訪ねた最後のドクの勇気を褒め称えたい。彼はもう一人ではない。 

舞台となった1962年頃には、南部各州でまだジム・クロウ法と総称される人種差別法が現存していて、法の名の下に黒人がレストランや病院から締め出されていたとは知らなかった。いつぞや、人種差別についてアカデミーは糾弾されていたが、それ以降、差別に切り込んだ作品の受賞が増えたことは気のせいではないだろう。しかしそれに違和感を呈することにあまり価値はない。変革とは常に、違和感をかもすものだ。

そうだ、今日はプレステで遊ぼう。(『運び屋』感想)

仕事に全てを捧げる男、もしくは家族を顧みない男・アールは、ネットの利便性に押しつぶされ、事業に失敗して全てを失った。 
とはいえ、彼には仕事しかなかったので、言い方を変えれば失業しただけにすぎない。くだらん、と吐き捨てたネットに負けた。 

はじめは自分でも知らずにヤクの運び屋となってしまう。報酬はたんまりもらえるので、味をしめて、何度も何度も…。それでも、利他的な金の使い道が中心なのであまり憎めない。アールの古風ながらもズボラで親切な人柄が、組織の人間をどんどんユルくさせていくところが笑えた。でも、頭取までユルくなった結果、部下が後ろからズドン。機械的合理主義人間が台頭して、アールも大ピンチ……。 

ここまであらすじを確認してから気づいたけれども、アールは「古き善き」の象徴なのかな。現代の技術革新についていけず、姿を消していった「古き善き」ものども。新しいものにとってかわられて、いまの世代はその"新しいもの"しか知らない世代になりつつあるけれども。 

たとえばネットがなけりゃ我々の世代は本当に無知な人間だろう。知識や経験を軽んじたからである。たとえばわたしたちはゆとりを知らない。確かにいままさに筆者がさわっているスマホ等の端末によって、いつでもどこでも仕事ができるようになった。だがそれは、仕事と生活が不可分になり、本当の意味での余暇は消失したということも意味する。 


比較からは常に新しいものが生まれうる。貴社と他社を比べてご覧なさい。そうしてなんの違いが成果の違いに繋がっているのか考えることもあるでしょう。その意味で、現代を超克するのに、過去を見直すのは往々にして有意義である。 

アラ? でも待てよ。ということは、「家族を顧みない」というのは旧世代の価値観なのか? それともいろんなところでガキをこさえてきたイーストウッドの反省? でも確かに、現代のほうがプライベートは大事にされるようになった気がする。 

私はどう生きよう? 

うーむ、和洋折衷ならぬ、"今昔折衷"ということで、ここはひとつ……。