やさしいインターネッツ
確信しているが、この10年でインターネットはつまらなくなった。あるいは以前のとおりの楽しみ方はできなくなった。2ch(お家騒動が起きていたなぁ)や個人ブログを巡回して泣いたり笑ったりした時代は過去のものとなってしまったのだ。
理由はカンタン。ネットが痰壺としての秘匿性を失ったからであろう。
最近、ひょんなことから00年前後のインターネットに戻り、現存していて未だに閲覧可能なブログを見ていた。これが面白いのなんの。自分が面白いと思うものだけを羅列したニュースサイトまがいの海外記事ブログ、乱れた性事情をありありと告白するブログ、etc...etc...
時の淘汰を経た結果だと言われればその通りだけど、やはりいまとかつてじゃネットの環境は違う。それにワタクシが面白いと思うのはそれぞれの記事の秀逸さじゃなくて、ブログごとの「大胆さ」なのだ。そのブロガーの人となりがまざまざと表れている。特に00年前後なんて、ネットにアクセスできて使いこなし、ブログを書けた人間なんて一握りしかいなかった。「ブログやってます」なんて人も珍しかっただろう。だからこそ、日陰は日陰のままで放って置かれ、彼ら彼女らの人間性が、開けっぴろげにさらされている。それはもう、もはやネット裸族と称していいくらいに大胆だ。
ネットはかつては、自分の日常とは切り離されつつも身近な場所という、矛盾に満ちた夢のような場所だったのではなかろうか。ジャイアンにいじめられて悔しい思いをしながら帰宅しても、勉強机の引き出しをあければタイムマシンがあったり、押入れではドラえもんが寝てるみたいな、あののび太の部屋のごとく日常と非日常とが隣り合う場所だった。
にもかかわらず、ネットは日常に侵攻してきたのだ。mixi、facebook、twitter、instagramと、流行りのネット媒体の全ては日常の交友網の補強材としての色合いが強い。多くの人は友人たちと四六時中つながり続ける場所としてネットを利用している。そんな場所を痰壺として使ってみろ。みんな怒るだろう。お前の痰なんて見せつけるんじゃねえ、と。
こうして、ネットは痰壺ではなくなり、みんなに自分の日常見せるための場所に変わっていった。そのためか、最近見たブログはどれもこれも、「読者」を想定したものになっている。いや、"しすぎた"ものか。だから、面白いものを見せてやる、考えさせてやる、共感させてやるという魂胆が見え見えだ。サイコーにツマラナイ迎合型コンテンツの集合体こそが現在のネットだろう。
ザッカーバーグが先日のスピーチのなかで、これから来る時代を「The Future is Private.」と表現した。これからはどこまでもつながり散らすのではなくて、限られた閉じたコミュニティのなかで常時接続している関係が生まれていくと彼は予測しているらしい。mixiが出てきた時は実名で登録している人たちのネットリテラシーを疑ったものだけれど、実名が前提のfacebookがここまで流行ったことを踏まえれば、ザッカーバーグの言うことももっともなのかもな、と思う。
でも、俺は嫌だなぁ。だって、自室でもひとりになれないのでしょう? インターネットは恐ろしい場所でいてくれないか。いっそのこと取得が激ムズの資格を持った人にしか使えないようにしてはどう? だめか。
恋の壁(『her 世界でひとつの彼女』 感想)
とてもよかった。面白かった。
曰く、「自分の殻にこもった」ことで妻に出ていかれた男が、新開発されたOS(AI)と恋に落ちる……っていうあらすじだけ聴くと、ナードやギーク、もしくはオタクが主人公の映画という気がしてしまうが、そういうわけでもない。だって、そもそも舞台は人々が常に耳にインカムをつけて、AIに音声で指示を飛ばし、情報を得ながら暮らしているような世界(時代)だ。だから電車の中では乗客がみな、中空にむけて喋りつづけている。こちらからすりゃかなり異様。
そんな世界なので、AIはだいぶ身近な存在らしい。主人公が「新しい恋人はAIだ」とカミングアウトすると、周囲は「マジ!?サイコーじゃん!」「今度ダブルデートしようぜ!」などと反応する。これを異常ととるかこの世界の正常ととるかは人によりけりかもしれないが、おそらく後者だと思う。というかそう見た方が楽しくないですか。でないと、終始「うわぁ〜」と思いながら見ることになってしまいますよ。
AIというのが固定観念を呼び起こしてしまう。姿形も見えない、どこにでもいてどこにもいない高次の情報存在との、それはそれは真剣な交際だと見るととても切ない映画だ。お互いの存在のあり方の違いをどうにかして埋めようとする2人の様は見ていてもどかしくすらある。
ホアキン・フェニックスは『ザ・マスター』でもそうだったように、塞ぎ込んだ微狂人の演技が上手すぎる。声だけでサマンサを具現化したスカーレット・ヨハンソンもあっぱれ。キャサリンがリスベットとは気づかなかった。
俺は一人だ、なんて言うなよ(『グリーンブック』感想)
小気味よいユーモアにあふれ、笑みをこぼしながら見ることができる良作。
「インテリ黒人と粗野な白人」のコントラストが、レイシズムを生み出した背景にあったであろう「文明と野蛮」の二項対立と対照を成しているように見えた。
ドクの影響でトニーは差別意識を薄めたり、教養を身につけていったりする。また逆にトニーの影響でドクはかつてならば「低俗」と切って捨てたであろうあれこれにふれるようになるし、孤独や抑圧に向き合うようになる。互いが互いに影響されつつ、善くなっていくさまは見ていて気持ちがいいのである。
彼ら二人は当時のアメリカでは(もしかすると今のアメリカでも)はみ出し者なのである。居場所がないのである。でも、考えてみればそれは彼らだけの問題だろうか。なぜなら、どんな人間も、どこかの局面では孤独だからだ。学校でも会社でも、孤独な瞬間のない人間などどこにもいない。大切なのは、自分がよすがをどこに求めるかだろう。「俺は孤独だ」と割り切った顔をして、差し伸べられた手をふりほどいたり、届きそうなのに手を伸ばさなかったりということはしないようにしたい。それはただの弱虫だ。はじめは断りながらも、改めてトニーの家を訪ねた最後のドクの勇気を褒め称えたい。彼はもう一人ではない。
舞台となった1962年頃には、南部各州でまだジム・クロウ法と総称される人種差別法が現存していて、法の名の下に黒人がレストランや病院から締め出されていたとは知らなかった。いつぞや、人種差別についてアカデミーは糾弾されていたが、それ以降、差別に切り込んだ作品の受賞が増えたことは気のせいではないだろう。しかしそれに違和感を呈することにあまり価値はない。変革とは常に、違和感をかもすものだ。
そうだ、今日はプレステで遊ぼう。(『運び屋』感想)
仕事に全てを捧げる男、もしくは家族を顧みない男・アールは、ネットの利便性に押しつぶされ、事業に失敗して全てを失った。
とはいえ、彼には仕事しかなかったので、言い方を変えれば失業しただけにすぎない。くだらん、と吐き捨てたネットに負けた。
はじめは自分でも知らずにヤクの運び屋となってしまう。報酬はたんまりもらえるので、味をしめて、何度も何度も…。それでも、利他的な金の使い道が中心なのであまり憎めない。アールの古風ながらもズボラで親切な人柄が、組織の人間をどんどんユルくさせていくところが笑えた。でも、頭取までユルくなった結果、部下が後ろからズドン。機械的合理主義人間が台頭して、アールも大ピンチ……。
ここまであらすじを確認してから気づいたけれども、アールは「古き善き」の象徴なのかな。現代の技術革新についていけず、姿を消していった「古き善き」ものども。新しいものにとってかわられて、いまの世代はその"新しいもの"しか知らない世代になりつつあるけれども。
たとえばネットがなけりゃ我々の世代は本当に無知な人間だろう。知識や経験を軽んじたからである。たとえばわたしたちはゆとりを知らない。確かにいままさに筆者がさわっているスマホ等の端末によって、いつでもどこでも仕事ができるようになった。だがそれは、仕事と生活が不可分になり、本当の意味での余暇は消失したということも意味する。
比較からは常に新しいものが生まれうる。貴社と他社を比べてご覧なさい。そうしてなんの違いが成果の違いに繋がっているのか考えることもあるでしょう。その意味で、現代を超克するのに、過去を見直すのは往々にして有意義である。
アラ? でも待てよ。ということは、「家族を顧みない」というのは旧世代の価値観なのか? それともいろんなところでガキをこさえてきたイーストウッドの反省? でも確かに、現代のほうがプライベートは大事にされるようになった気がする。
私はどう生きよう?
うーむ、和洋折衷ならぬ、"今昔折衷"ということで、ここはひとつ……。
四本足
20年以上世話になった歯医者さんが、60手前でぽっくり逝ってしまった。詳しい病状は院関係者にも多くを語らなかったらしい。だからどんな病魔に冒されていたのか、いまとなってはわかりようがない。最終的には肺から、ということであった。
まさに「肝っ玉母さん」て感じの人で、私が歯磨きをサボって盛大な虫歯をこさえると「あっらー! こりゃひどいわ!」とか「ひゃー!」とか言いながらゴリゴリ治してくれた。煙草吸い始めたのがバレて怒られたこともあったな。「禁煙外来いきなさい! いいところ知ってるから!」とか言って。歯裏の着色ですぐバレる。
この歯科医院について覚えている最古の記憶は、スクリーンのようなワイドな視界に映り込んだ、四本足だ。
幼少の私は、はじめて来た歯医者にビビり倒していた。いざ、名前を呼ばれて診察室に入るという段階になると「やだーーー!!」と叫んで待合室のベンチの下に潜り込んでしまったのだ。でもそのあとは医者や衛生士にほめられるくらい大人しかったので、たぶん、そういう漫画みたいなことをやってみたかっただけなんじゃないかと思う。
いまでも医院にいる衛生士さんのひとりは、その頃ちょうど勤めはじめた頃だったそうで、まるで蛸壺の中のタコのごとくベンチの下にへばりついた健康優良児(重量級)にほとほと困り果てたそうだ。(この歳になって「○○ちゃんはあのとき〜」という語り出しで何度もこの話をされるとめちゃくちゃ恥ずかしい。)
この衛生士さんと母上の4本足に引き出された私は、あえなく診察台に連行され、刑が執行された。ここから歯の弱い私の、長きに渡る通院歴がはじまったのであった。
ほぼひとりで医院を切り盛りしていたセンセーは、一昨年だかに転んで足をやって2週間ほど休んだ。よく、「人は足を痛めると弱る」と聞くが、本当にその通りだと思った。戻ってきたセンセーはなんだか一回り小さく見えた。
それから1年くらいして、つまり去年のはじめくらいだったと思うけれど、センセーはまた1ヶ月くらいの長期の休みをとった。受付のお姉さん(この人もベンチ事件の頃からいらっしゃる)にどうしたのか聞いてもいまいち要領を得ない答え。思えば、いやな予感はこの頃からしていた。なぜなら、この時に戻ってきたセンセーは気のせいなんかじゃなくて、本当にふた回りほど小さくなってしまっていたからだ。
そして昨年の10月ごろ。またまたセンセーは休みをとった。今度は戻ってこなかった。
通夜に行ってみると、参列者がとても多くて驚いた。仕事にストイックな人だったし、学会や協会などからの信頼も厚かったのだろう。地域の小学校の歯科検診もすすんで引き受けていたようだ。なんと市長まで来ていて、簡単な弔辞を読んでいた。
センセーはいったい何万人の口の中をのぞいたんだろうか。週に一回は特養の子どもたちのための通院日をつくったりもしていたくらいだから、特別な思い入れがある人は多かったはずだ。医師が一人しかいないもんで、待ち時間はめちゃくちゃ長かったけれども、患者が途絶えたことは見たことがない。ということはこれからその何万人の人たちがセンセーに世話になった歯でもって、死ぬまで飯を食うわけだ。
ああ、この歯たちを治してた人は凄い人だったんだな。これから自慢しよう。
にしても、人の死というのは呆気ない。味気ない。やるかたない。
センセー、禁煙外来、まだ紹介してもらってないよ。肺が真っ黒になっちまう(禁煙しろ)。
I'm Happy, she said.
友人B氏がそのまた友人の結婚式に行ったらしい。
式自体がどうであったか彼は話さなかったが、いまどきあらゆる式と名のつくものは均質化されていて、毛ほども面白くないのだから聞かなくてよかったと思う。
とまれ、Bはそこで元カノと呼ばれる類の女に出会ったのだ。そしてその女は言ったらしい。
「今度、結婚するんだ」
いったいぜんたい、昔の恋人に出くわした時のえもいわれぬやるせなさはどこから来るのか。というか、やるせないって言葉はこの時だけのためにあるんじゃないかってくらいだ。あれは独特の情緒すぎて、説明に困る。
思うに、恋人というのは人生の中で出会う人の中でも相当に異色を放つ存在だ。一緒に飯を食う、遊びに行く、手を繋ぐ、セックスする、喧嘩する。ここまでは恋人とじゃなくてもできる(たぶん)。でも、恋人にしかない、恋人としか経験できないものがあるからこそワタクシたちはやるせなさにも苦しむのじゃなかろうか。おそらくは、将来性、未来性、可能性と言ったものども。今度はどこに行こうかな。あれもしたいこれもしたい、一緒に。この人と続くかな。結婚?「恋人」と書いて「ミライ」と読んでもいい。そこには、自身の「これから」が開示されている。だからこそ、明るく開かれてるうちはワクワクドキドキだし、暗く開かれてるときはどうにかして照らしてやろうとあくせくするし、もしかするとあきらめてしまうこともあるかもしれない。だいたいの人には正の走光性があるから。
やるせないのは、原因がどうあれ、自分が捨てた「これから」を正面から叩きつけられるからだ。ギャルゲーで言えばルート分岐の選択肢。ただしセーブ&ロードはきかない。どんなカイショーナシ男でもウワキショー女だろうと、そこには一瞬の未来があった。
昔の恋人というのは、自分が選ばなかった、いや選べなくてくずかごに放り込まれた自分そのものなのだ。そう思うと、お気に入りだったのに、ハードに扱いすぎて壊れ果て、腕がもげたり色が剥がれたりして押入れにしまいこまれた、あの怪獣人形たちの瞳を思い出す。
「別れてせーせーした! 何よあんな男!」 これはバッドエンドを回避したのだから正しいコメントだ。ただし自己弁護でもある。ひとつの未来が失われたことに違いはない。やるせない。
B氏もやはりやるせなさにとらわれたそうだが、彼はそれでも言葉を返した。
「よかったね」
これ、スゴくないですか。ワタクシにはできません。
何を隠そう、ワタクシも先日昔の女と話をする機会があった。こちらから用があって連絡をとった。いまは別の彼がいて、楽しくやってるみたいだ。そこには嫉妬や怒りはなくて、ただただやるせない(自分から連絡したのに)。
スマホごしに様々話して、別段昔に思いを馳せるなんてこともなかったけども、終わりに彼女は言った。
「あなたは幸せになると思ってる」
君とはなれなかったけどな。
グッバイ、マイフューチャー。
ひゃくさいねぇ
ふと思ったのだけれど、most つまらない(=worst おもしろい)のは次のうちどの人間か。
・ただただつまらない人
・自分をおもしろいと疑わないつまらない人
・自分はつまらないと言いつつ、実はちょっとおもしろいだろと思ってるつまらない人
一人目はちょっと気の毒。つまるつまらないの評価軸がないのに他人からは「つまらない」のレッテルを貼られる。ほっといてやれ。
二人目は害悪じみているがたぶん悪いやつじゃないし幸せ者だ。でもつまらない。
三人目は、ワタクシが思うに一番つまらない人間だ。いや、パッと見では人を笑わせていたり、周りからも「おもしろい」と言ってもらえていて「いやいやそんなこと〜」とか言いながらへらへらしている。そして内心は満足している。つまらないというかくだらねぇのか。百済じゃないよ、我があいほんさん。